25.3.20

【札束で顔をひっぱたく】という言い回しの裏に隠された【カネの正体】

この記事は、来月はじめに公開する。
【ハイパーエリアプラス7G】でWiFi制限がかけられているため、PCで入力作業が出来ない。
規制がかかった瞬間プロバイダを乗り換えようと思ったが、それさえままならず。

現在契約しているエアモバイルを恨んでいる。

来月他社に乗り換えるつもりだ。

では、来月また会いましょう。

14.3.20

浅はかな考えは、平等幻想から導き出される

見るに耐えないようなコメントの数々。
支配層に対して性善説という、決してそぐわぬフィルタを通した解釈を以って語るという過ちき気付きもしない。
自らの境遇に肯定的で満足しているしているのは、どういったカラクリに依るのか、思っても見ない。
それが古代より【大衆】と称されるものだ。
その思考回路こそ、古代より一欠片の進歩さえないところの、『その他大勢』である証だ。害悪である。

それ等大衆は、その、なんの進歩もないところの民衆は、支配の野蛮さ無慈悲さ残酷さに危機感を持つ目覚めた人々をいつも押し潰す重荷なのだ。






5.3.20

明治ハイカラの生き残り菓子パン【シベリア】試食!

私はいつもネット上の下らない話題を綱渡りしながらぶらついているのですが,去年か一昨年辺りから気になっていた食べ物がありました。それが上の写真の【シベリア】です。

とうとう購入しました。
実は,ずっと気にはなっていたのですが,私はもともとパンが嫌いなので,購入まではいかなかったのです。といっても,最近,自分が毛嫌いしていたパンというのは,日本のパンだったという事がわかりました。自分自身の事はなかなかわからないものです。欧州に10年以上住んでいながら,日本でのパン嫌いをそのまま続けて,殆どあちらのおいしいパンを口にすることがなかった程に憎んでいた,特徴的な日本のパンを二度と味わいたくない,そういう深層心理が,私をして,シベリアにNOといわしめ続けたのであろう。

しかし私は自らを規定して縛り付けるものでは決してない。自ら望んで意固地になっているのではなく,全てに手が回らぬこともあるというだけだ。試さずして結果を知ることもないのだから,試してみようじゃないか。何時までも遠くから眺めているわけにもいかないだろう...。

と言う訳で,食べてみましたシベーリア。



...,手に取るべきものを間違えてしまったようだ。

これはカタチだけのシベーリアに違いない。

私の想像というか,創造とは全く違うものであった。

私はほかの人のレビューを見てからどのシベリアを手に取るか決めるべきであった。

今回の試みは,私のパン嫌い病には完全に逆効果であった。

パンを嫌った日の味覚感覚がよみがえる。


「…なぜこんなにフワフワ過ぎるんだっ(エアリーすぎて味がぼやけるこの食感)!」

「こんなのシベリアじゃないっ(食べたのはじめてなのに)!」

...せっかく最近丁度パン全般が気になりかけていた時だというのに,何という選択の過ち!

自分でパンを作る用意さえしていた矢先にこの大失敗。

ああ,矢張り日本のパンはダメだ...というか,シベリアってパンなのか??


自分の予想では,パンというかカステラ部分は,もっと身の詰まった重めの生地であるはずだったのに!(脳内で勝手に違うものを製造しただけです)


第一印象は「美味しそうであり,と同時に,味気無さそうな」いつの時代のハイカラか謎の存在。とてもユニークなものでした。(過去形)


きっとどこかに美味しいシベリアがある!と信じたい。(未来における願望成就への期待)


という事で,これからシベリア決死隊となって探索してきます(ひとり検索隊です)!


では,究極のシベリアを探しに行ってきます(外出はしませんが)!


ではまた('◇')ゞ



最近のベジタリアニズムは細分化され敷居が下がったが,右へ倣え!!( ゚Д゚)ナ,ナンダ?

ベジタブル・タコスとサルサの,どアップ画像

軍隊のように縦横に整列するレゴ人形の群れ。背景色白一色。6体の顔のない,白い人形が手を降ろした同じ格好で整列しているが,後ろから3番目だけが赤色で,片腕を腕を腰に当て,もう片方を上にあげた陽気なポーズをとっている。いまだになかなか進まない日本のベジタリアニズムだが,(おそらく2010年台中盤くらいから?)過渡期を経て細分化されかなり敷居が下がってきたようだ。

ベジタリアニズムには元々敷居などないのだが,現在に至るまでの日本では,ベジタリアニズムはまるで宗教扱いであった。(というか,大半以上の大多数がそういう反応であった。)

欧米ですら,いろんな形での抵抗感を人々から感じる事は確かにあったが,日本ほどではなかった。その抵抗感とは,雑食の人々が,自らの罪悪感を打ち消したいがため雑食を正当化したり,あるいは,健康的ではないと本気で思ったりしている人々の疑念に道ら態度などであった。

日本では,どんなことでも,他人と違う事はダメなことだ,という極端なワレワレ意識というか,未知のものに対する拒絶反応といったところだろうか??


私個人は他人に対して,ベジタリアニズムを表明したり,また,勧めたり,雑食を諫めたりなどは一切したことがなく,普段も菜食主義であることを隠していたし現在でもそれは変わらないのだが,そもそも,私が思う,ベジタリアニズム精神の目指すところとは,広く人類に受け入れられ実践されることであるから,時が経つにつれ実践者が増えていくことは菜食主義世界の明るい未来そのものだ。


菜食主義を教義の一つとする宗教の信者を除き,もとから肉食である欧米人種が真っ先に宗教抜きの菜食主義の先陣を切って歩んできたのは,やはり,人類において相対的にみて,余裕がある立場であったからだろう。動物も人間も,四六時中目まぐるしく生存競争に明け暮れざるを得ない環境では,ものをじっくり考える余裕すらないという事だ。

日本が欧米並みに肉食をするようになったのは,戦後からだろうと思うが,その日本人が最もベジタリアニズムに対して警戒が解けないように見えるのは何故なのだろうか?

隣の台湾や,また,中国でさえも,ベジタリアニズムは根付いていて,菜食専門店や菜食用の別メニューがある飲食店は何処にでもある。


深く考えず,単純に考えてみると,一つの答えが浮かんでくる。

日本では,「上から全員が従うように強制されなければ,誰も手を付けない」という事だ。これは,選挙で投票に行かない人達にも共通した心理だと個人的には思うのだが,どうだろう?

私は,選挙の投票は,罰金アリで国民の義務として定めるべきだと思っている。

私は,日本人の大半は,日本政府に消費税をいくら上げられても,その消費税の使い道が不透明であっても,そのうち30%や40%になっても,まだ何もしないのでは?と,危惧するものである。


冷笑的な態度でいても,何も変わらない。ベジタリアニズム同様,自分自身の行動を変えなければ,世の中は決して自動的に変わったりはしないのだ。
政府が上から私たち国民の処遇を決定して生存権さえ削られているのが現状だ。
他国の抵抗や運動や闘いを見ていると,何もない日本に,危機感を覚える。
危機感というのは,ここにいると,自分一人がいくら声を上げても,他の日本人はただ上から言われたことに従うだけで,良いように踊らされても平気で生きている者達に合わせて生きて行かなければならなく成るからである。
日本国は昔から互いに戦い続けてきたのだ。そこで天下を盗った者たちが,自分の家族ではなく,味方ですらなく,対等な関係ですらなく,国民のために働いているわけはなさそうだということにすら,考えが及ばないほどに,日本人は余裕がないのだ。なぜかはよくわからない。

私たちのなかで,日本の歴史はどこかで断絶したまま,いまだに繋がらない部分だらけなのではないだろうかと,よく思う事がある。
この世界最古の国家を維持する(それさえ幻想である可能性を否定できないが)それ程古くない歴史ですら,様々な形で断片的に資料などがあるだけで(それらの証拠すら偽造である可能性を否定できていないものが多い),その他は憶測,推測の域を出ない。
多くの歴史好きの日本の人々が,日本は,途中で乗っ取られた国家であると主張している。私は歴史に疎いし,そもそも歴史のように,過去のときの勝者たちが好き勝手に言い放った滅茶苦茶なオハナシの真相を解明するなんて考えただけでも気が遠くなって眩暈に襲われるので,誰かすごい人たちが解明に力を注いでくれることを望むし,出来るなら協力するし,応援する。←結局ソレカヨ



3.3.20

無料画像素材サイトに自分で撮った写真をアップしたら拒否された!その基準とは??

写真評価のページ。✖とチェックマークのどちらかをクリックして評価する仕様。まず,
このページをご覧ください。→
(他人様の写真なので,被写体を隠しています)
他人様の写真を〇✖で評価するページです。











このページは,登録者がアップした写真を,他の登録者が評価するためにある。互いに評価しろ,というわけだ。
私の目には,どれも有用であるように見えるのだが,多くの人が,写真の質にとてもこだわっているようだ。


無料素材の写真を利用している私やほかの人が,全員,そんなクオリティの高い,そして見栄えばかり良い写真を探してこのサイトを利用しているとは,私には思えないのだが…。しかし,実際に多くの人が,クオリティの高い写真だけにOKを出し,見栄えが悪い場所を取っただけの写真を却下,排除しているようだという事は,評価ページで色んな画像を見ていてわかったような気がする。


私は,次々と評価を求めて表示される全ての写真にOKしてしまった。
何故なら,私の考えでは,まるで広告の補正された写真のように,見栄えの良い写真ばかりがあっても,全ての需要にはこたえられないのではないかと思うからだ。


これらは,評価の分かれる写真か,却下された写真なのだろうか。
寂れて汚れて見える村のような場所を走る電車の写真や,明らかに悪天候(曇り・鉛色の空)に撮られたであろう色味の良くない写真が次々と表示される。


個人的には,そういった写真があってくれた方が助かる


例えば,『悪天候で出かける事になった旅行の初日』についての記事を書く時などに,こういう写真があると助かる。実情を表現するためには,より現実に近い方を選びたいのだ。


ちょっとぼやけた写真にしてもそうだ。
それが何の役に立つかというと,『悪くなってきた自分の視力で見える視界』を表現する図として,有用なのだ。



商用で使う人は有料の画像素材を利用するだろう。

プロが作ったようなキレイな画像を使いたい時もあろうが,そうでない写真の需要も確かにあると思う。少なくとも,私の場合は,より実態に近い写真を選びたい。ぼやけているものや,見栄えの悪い場所の写真,または暗めの写真を含めて。
自分の顔写真についても,あまりきれいに撮れている写真を人に見せる事にはためらいがある。普段と違ってキレイに撮れてしまった写真だと,かえって気恥ずかしいからだ。そういう写真は自分用として個人的に楽しむ。(自己陶酔用。またはドヤ顔用として冗談半分に見せびらかす時のため)


素材用イメージファイルのコミュニティに申し上げたい。

もう少し許容範囲を広げよう!
そしてそれ以外の需要も想像して評価しよう!


きれいな写真ばかりに需要がある訳でもないのだ。






有料ダイヤル0570ナビダイヤル(現在企業の多くが客除けに設置)の功罪



ヘッドセットを着用したコールセンターの女。ドヤ顔でカメラ目線。


言うまでもなく,功罪の「功」の方は,全て企業側である。

客の大半を黙らせることが出来る。
カスタマーサービスに人件費を割かなくて済む。
客に仕返しできる。(わざと話を長引かせて意地悪く嘲けているような電話受け役が多い)
ヘッドセットを着用したコールセンターの女。カメラ目線。


こういうのも,「殿様商売」と表現できるのではないだろうか。
現在では,かなり多くの企業が導入していて,カスタマーの事を「迷惑なヤツラ」とカテゴライズしてみていることが,この番号を導入していることによって,明らかである。


この番号にかける事が嬉しい人はいないだろう。
かけ放題を利用している人が多いのだから,この番号を使用すること自体が,「くやしかったら電話してみろ!たらい回しにして長話にこたえてやるぜ!」と客をヤッツケル気満々なのがあまりに明白。

ヘッドセット着用のマネキン頭部の写真

こんなところから日本のサービスは崩壊している
皆責任感から解放されて,仕事がしやすいだろう。

何しろ,自分の至らなさを,客のせいにして済ますという技を身に着けたのだから。
そしてそれを聞き入れる中間管理職や経営者もいて,「客は全部クレイマー」と決定してしまった結果が,ナビダイヤルという,客を完全にコケにした末の回答なのだろう。

これでは,他のアジアとの差がどんどん縮まり,仕舞には大して違わない上に,日本語や日本文化を勉強している人たちもどんどん増えていることもあるので,いまに追い抜かれるだろう。日本の高くて(客にとって)屈辱的なサービスより,多少テキトウでも,「安い」という価値がプラスされた海外のサービスに人が流れるのが普通の流れだ。

しかし,日本人というのは,消費行動に大きな力がある事を分かっていない。
海外では「不買い運動(ボイコット)」に象徴されるように,消費者たちが,自らの日常の消費行動が,企業をも動かす力を持っていることを知っている。だからこその不買い運動(ボイコット)なのだ。

日本人は日常に流され,消費行動を変えることは出来ない。
自分ひとりが変えてもどうせ,どうにもならない,と,初めから決めてかかっているからだ。その反面,何故か,テレビに踊らされて大量に買い込むことは大得意である(苦笑)


日本人が消費行動を武器として自覚する日はいつ来るのだろうか
愚かすぎて涙も出ない。
こういう団体と一緒にいるのは,ある意味,とても恐ろしい。
戦争を止める事も,汚染源を止める事も,悪徳企業を駆逐することも,何もできずに飼い慣らされ続け,いつか食われる日を待つだけだろう。


消費行動は,企業への投票だと思え,と何かで見たことがある。
全くその通りだ。
多くの客が集まった企業は,その後,世に蔓延るのだから。




 

コロナウィルスでトイレットペーパー( ´艸`)売り切れ?の謎とエボラ治療薬お試しの謎

白い背景。前面に立つのは,サンタの帽子をかぶった人間。何故か,トイレットペーパーを左手に持ち,惚けた表情で遠くを見つめている写真。

ニュース記事のタイトルで見た文面だが,コロナウィルス蔓延がトイレットペーパーの買い占めに繋がるとは是如何に?
ちびる程恐ろしい,という以外に思いつかない...。
外出できなくなる可能性を見越して??
うう...矢張りよくわからない。

先月,私がインドシナ辺りを彷徨っている真っ最中に流行りだしたコロナウィルス。コロナウィルスについて,初めて現地の人から聞いたときは,いったい何事かと。
その時ちょうど風邪の様な症状に罹っていた私は,帰国時(2月5日),空港で引き留められるか?と思い,ちょっと緊張していたのだが,逆に何にもなさすぎて驚いたほど。

あれだけ騒がれているのだから空港でチェックしているものと想定していたからね…。

半月位ずっと熱があったので,捕まって隔離されるのでは?とハラハラしたものだった。

風邪のような症状が一応全回復した現在,これがコロナウィルスでなかったかどうかは知らないが,接触していた知人が無事なので,ウィルス性ではなかったらしいという事。

それはさておき...
私個人が感じる事だが,今回の「コロナウィルス」は,死亡率がそれほど高くないという事も,ニュースの端々から見て取れるほどだし,インフルエンザと比較しても死亡率は低い方なのではないか?実際,インフルエンザの方が多くの人が死んでいるらしいという記事もチラ見した。

それなのに,この大騒ぎ。

全世界にこの騒ぎを齎し,騒乱を拡大させたものは一体何なのか?

中国の武漢には,中国では唯一,最高レベルの病毒を扱う化学研究施設があるという。「コロナウィルスは人工的に作り出されたウィルスである」,と,欧米は見ているらしい。私が旅の途中で聞いたのも,全く同じことだった。「中国がウィルスをばら撒いてる(やっぱ中国はアブナイ,と。)」と。旅で忙しかったため全くニュースを見ていなかったのでその時点で何の情報もなく,後でPCを開けば,自ら検索するまでもなく,ニュースが目に飛び込んできた。

世界規模の伝染病に対処するための予行訓練?

・・・だとしたら,確かに日本政府の対応はお粗末そのものだ。

ちょっと前まで騒がれていたエボラ出血熱を思い出す。
富士フイルムホールディングスがアビガンという薬を持っていて,それがエボラに効くとかなんとかいうニュースがあった。
なんと,今回のコロナウィルスにも同じ薬を使ってみるという話が出ているようだ。
エボラに効く薬を,なぜ,「試してみよう」という事になっているのか,完全に謎である。謎。謎。なぞ...。

新型肺炎、エボラ薬の効果を4月公表へ

 新型コロナウイルスによる肺炎への効果が期待されているエボラ出血熱の治療薬、レムデシビルに関して、中国政府はこのほど、実施中の臨床試験の結果を4月27日に公表できるとの見通しを示した。記者会見で知的財産部門の高官が述べた。レムデシビルは米製薬会社が開発中の薬。日本でも承認を目指し、3月にも臨床試験を始める見込み。湖北省武漢市の複数の病院で重症から軽症まで多数の患者に投与し、効果があるかどうかを確かめている。高官は臨床試験の結果に強い関心を寄せていると述べ、米製薬会社が中国で特許の申請作業を進めていると明かした。(北京 共同)

 
 

2.3.20

好きになれない日本の言葉 -1-


家の外からカーテンのかかっていない窓を見た写真。窓の向こうには女の子が見え,憮然とした表情でこちらを横目で睨んでいる。
!白い目&虫唾!


便利な言葉なのかもしれないけれど,なんだか許せない。これら単語は,「日本語野を通り過ぎてどこか遠くへ漂着してくれ」と願う。

▼ ほっこり

▼ ローンチ


ローンチの方は,単に日本語の語録不足から使い始めたのだろうし,「語感が日本語に合わない?」と私は感じる。

ほっこり,という単語は,語感が...何というか,ほっこりし過ぎで,矢張り,「どこか遠くでやってくれ」,といいたくなるくらい,どこか生々しい響きがいやらしいと感じるのである。なんだか,臭ってきそうである


語感が許せない単語,また,日本語として定着してほしくない単語というのは,たまに見かけるので,今度思いついたらまた書きたいと思う。

コメント欄に,嫌いな単語だけでよいので,書き残してくれると,面白い事になると思う。(ただそれら単語についての私個人の意見を述べるに留まるかもしれないが)

ではまた!!

 


右左という幻想は支配層にとって好都合【日本社会は右左といえる程平等では決してない】の巻



このような話題は、世の中では、多くの人々が避けがちな話題だと思います。
日常では全く聞くことのない話題ですが、誰にとっても明白であるべき内容だと思います。国民同士で見解を照らし合わせるために議論すべき重要な内容だと思います。

因みに私個人の考えを述べますと、右左というのは、実は、「事実現実を見誤らせるための言い方」であり、具体的に言って、「右・左は【同列】であるように感じられる」という面において、欺瞞的表現であると私は思います。


それでは私の考える実際の日本の社会はどういったものかというと、大きく分けて、【支配側と、媒体、(中間管理)、そしてその他】という三つに大きく分けられるものと認識しています。

しかし一方支配側としては、私たち「その他」が勘違いして自らを中流であるとか所謂【右】支配側と所謂【左】は同列である、などと勘違いしてくれれば支配がさらにやりやすいので、こういった言論を社会に仕込み、または野放しにしているのだろう、と考えます。

最近「上級国民」という言葉が盛り上がっていた時がありますが、それは氷山の一角でありまた現在格差拡大によって表出してきた実際の社会構造の姿だと感じています。

 

1.3.20

世界の様々な仏像を見るとき、どうしても頭の中で重なり合わせてしまうモノ




不敬極まりないというか、いや、私個人のものの考え方に依ってみるならば、全く不敬感などないのだが、世界に存在している様々な仏像(巨大なものや群を成しているもの)を見るとき私が思い浮かべる事は、過去閲覧して印象に残っている、ある本に載っていた「心理実験」の様子だ。

その実験というのは、猿を入れた檻の中に、人間かボス猿(ここは記憶が朧気だが)の檻の中に写真を立てて置くと、猿がそれを意識し始め、自分が何か良くないことをする際には、その写真立てを、見えないように伏せてしまう、という場面である。

巨大な仏像を見ると、どうしてもあの猿の心理実験が思い浮かんでしまうのであった...。


切り立った崖に彫刻してある巨大大仏の写真を見てまたぞろアレを思い出した今日の昼下がり。



ものの考え方の部分を説明すると、私は、猿を馬鹿にしていないので、猿と人間を取り違える様な事を言っても、特に不敬であるとかは感じないというだけだ。
それに、仏像を貶したわけでも何でもない。

私は、「自分は、人 間 様 で あ る !」…と、心の中で意味もなく威張り散らしている様な傲慢ちきではないので、猿と同列でも怒ったりしないというだけで、他人が感じる事の責任を取るつもりもない。感情的になる前に、自らも、正々堂々と、主張すべきだ。
自分の主張もなしに他人の批判ばかりするのは止めたほうがいい。

言論には言論で。

言論に対して暴力で答える生物を人間と呼んでよいのかどうか、と、よく思案することがある。