13.7.19

『不条理』という言葉の意味について。あなたはどう思う?

不条理という単語だけを検索してみても,定義も意味もよく分からない。
であるにもかかわらず,不条理は自殺と結び付けられ,哲学の大きな議題となっているようだ。

埒が明かないので,他は水に私が思う所を述べると,
『人間的には歪であるところの社会システムと人間の営みとの乖離の間での解せなさ。絶望的感情』

ようは,システムに敗北しているという事の自覚に従う絶望感。

...これが私の感じた『不条理』の意味である。


定義もあやふやなのは,『自死』という短絡的回答による思考停止なのではないかと。

今日はそれだけ。



10.7.19

国に対する制裁について

全国民にかかる,一国全体に対する制裁は無差別攻撃と同じではないかという事について。

国というのは人間の寄せ集めであり,立場も思想も異なる個人の集まりである。

これを他国や外部の団体が何らかの理由によって一斉に制裁を行う事は,被制裁国の国民を一般化して無差別に制裁する事である。

したがってこのような制裁はすべて犯罪的であると私は結論する。

制裁の理由に当てはまらない人々にとってこれは無差別テロといえる。

9.7.19

妄想世界と現実世界

さて、今朝の妄想は,東京大空襲についてです。
戦争が終わる前に、不必要にも東京を焼け野原にしたのはなぜだったのだろうか。
急にそんな妄想...朝からなぜか頭から離れない。まさにビョーキです。
今までほとんど考えたこともないそのような戦争時代の悲劇的空襲についての妄想が浮かんでくるなどとは、今まで想像だにしなかったことだ。それなのに妄想は飛躍してやってくる。
妄想とはそういったものなのだろうか...まあいい。これからその妄想が言っていることについて私と一緒に見てみたい人は続けて見てもらえばよいし、人の妄想なんて気持ち悪い、という方は無視していただき、次に書く、なにか違う記事に飛んでもらいたい。
東京大空襲で焼け野原になったとき、復興にかかる金は誰が出したのか。
そしてそのゼネコンが東京を作ったのか。
これが妄想の始まりの問いである。
「そんなこと知りません。」
…普通の人はこのひとことで妄想の種を打ち消して済むのであるが,何せ私は精神病であるからか(鬱やパニックなどであり、統合失調症ではないというが,さてどんなものかは神のみぞ知る、である。神はいないから、結局誰も知らないというのが事実なのである。)
9.11はデモリション会社がやるような都市部でのビル取り壊しのようなやり方でビルがグラウンドゼロになったようなのである。
アレが誰かがやったテロだというには余りに,センセーショナルな大ボラすぎるので、たいていの人たちにはバレている
東京は大胆にもほぼすべてが焼き野原になって、そのあとの復興が、ほぼやりたい放題にできるほど、まっさらな白紙状態までになったという。
戦争って何なのだろうか?
もちろん、大陸では国同士での領地の問題があるが、日本は島国。周囲に隣接する国はない
全ての他国とは海を隔てたお隣さんだ。
ざっくり言えば、東京大空襲は、わざと壊して立て直したかった
そういう妄想である。
なんらかの理由がないと、勝手にそんなことをしたら国民大一揆であるから、なんとか不可抗力であったという事にしなければ誰も納得しないし、国民は反旗を翻すだろう。
さて今回は福島が人の住めないところと言われて遺伝子がヤられた動植物の跋扈する荒れ果てたほぼ無人の地域となっている。一応のところ、「帰還してOKと言っているが.わざわざ被爆しに帰還したい人がいないのは明らかであるから、言っても言わなくても事態は変わらない。だから,言うだけ言っているだけ。
次は茨城か。東海村原発再稼働するつもりであるようなのだ
周辺の市町村が反対すれば、やめるなどと言っているが沖縄を見て見ろ。
他にも周辺住民の意向を完全無視して事はどんどん”向こう”の勝手に行われている真っ最中なのである。以上から鑑みるに、東海村は再稼働されるのだろう。日本国民である住民の意志は完全に無視される予定である。
ついでに、避難の準備をしているというから、東海村も重大事故を起こす予定なのだろう。

そして住民は流浪の民となるのである。

『ないとは言い切れない』- 究極の自説擁護 -

『幽霊がいるかもしれない』,とか言っている人たちが良く使うフレーズ。
自説擁護だけはしっかりとするが,宗教の勧誘に騙されるタイプの人たちである。
...幽霊とか云う物のハナシを始める人を見ると,新興宗教に勧誘できるかどうか試しているのではないかと勘ぐる私。
幽霊が幻視ならば,それを利用して騙すことが簡単だと思うからだ。
幽霊と化オバケとか言って騒いていると弱点を曝していることになる。
ただの馬鹿かもしれない,とも思う。
ただのバカだった場合,今後の付き合いもアウツなので寂しいばかりだ。
別に悪い人たちというわけではないからツライ。
幽霊は幻視であると割り切ってくれないものか...

心霊写真とは,脳が作り出したモノ「霊」が見えてしまっているだけである,という事を分かってほしい。目と口があれば勝手に脳が人の顔だと認識してしまっているという事を。
スマイリーを見せれば分かってもらえるだろうか?(笑)
自分が見えないから言っているのではない。
"幻視的" には「見た事がある」,とは言える。
それは多くの人が体験する金縛りだとか夢のようなものだとかの中でのことである。
割り切って幻視を見ているのである。金縛りを無理やり解いたこともある。
オバケとか幽霊とか言って騒ぎはしない。
本当にいるならとっくにとっ捕まえて見世物にして投げ銭で暮らしていることだろう。

副作用よりも乱用を問題視するアホさ加減

次々と現れては消えてゆく薬たち。

キツイ症状には荒療治が必要なのは,薬に限ったことではない。
重い症状にはよく効く薬が必要とされるのは言うまでもない。
暴れる犯罪者には手錠では足りず,拘束具が必要になってくる。
乱用者は勝手に危険に身を晒しているのだから,放っておけばよい。

「死んでもいいのか?」...だって?

どれだけ甘やかされたのか,それとも自分の子を甘やかしているのか知らないが,はっきり言おう。「死んでも自己責任」とはこのことだろう。

自分の判断で勝手に処方薬を遊びに使う者たちを止められる者はない。
自分の知らない領域に飛び込むには勇気がいる。全てが自己責任だからだ。
そのリスクを冒さずして自分の中での未知の領域,新世界を実体験することは出来ない。
それが怖ければ,手を出さないことだ。そこに『お試し』はない。常に実体験であり,本気の遊びであることを知るべきだ。

乱用者の為に禁止にされる薬物の数々。
何と馬鹿らしい理屈だろう。

いつもはじめは,「従来より安全な...』という謳い文句で発売される薬たち。
乱用者のせいで危険な薬と指定される。

それを受け入れる一般人(人類の半数以上)もアホウ。

あまりに短絡的な思考回路の産物であるところの現象について勝手な感想を書いてみた。

映画『万引き家族』



ちらっと見聞きした前評判では,単に,ある家族がみんな快楽的に万引きをする内容だと勝手に思っていた。ので,すぐに観るのを止めるかもしれないと思いながら見始めた。
それがあまりに単純な憶測だったという事は,見始めて少ししてから,作品に見入って最後まで鑑賞したことが証明した。

何という映画だろう。
見ごたえのある映画というわけでもない。泣ける映画,などという枠にも入れられない。

見始めて少ししてからか,私はあの”家族”の一員になるように引き寄せられていった。

いや,あの女の子が家族に引き入れられていく場面と同時にわたしの中の子供はあの家族の一員となったのだった。

私の中の現実とあの家族の現実には段差がなかった。

現実とは何だろう...この物語には,人と人とのつながりと,現在の社会構造との完全な剥離が鮮明に描かれていると感じる。

皆で分け合い,支え合い,足りないものを補い合い,心を分け合い,安らぎを手に入れ...

自らの至らなさを互いに埋め合い,許して受け入れ合う,円となる。

これを何と表現するのか。心の観点から言えばこれこそ家族というものである。少なくとも私にとってはそれが感想だ。

しがらみの家族ではない。血の繋がりも,体裁を保つための牽制のし合いもなく,そのままの各個人を受け入れ許し合う。



血で繋がった家族もいつかは離れ離れになる。

この,血で繋がっているわけではない心の繋がりの家族もそうだ。

完成した家族のようだった時期を過ぎ,またバラバラになる。

曼荼羅のように...。

出会っては別れる。この世界に誕生した時から,それを繰り返して人は生きてゆく。そして死んでゆくのだ。

最後の締めなど書く気はない。それは見栄えの良いだけのウソになるだろうから。

物事には,始まりと終わりがあるように見えるが,実はどうだろう。

繰り返して永遠となるのではないだろうか。その輪の中に私たちはいて,人々が出会い別れていくが,完結などあるのだろうか?